中国地方Tour22#1-1
2022/4/29(金) 岡山→東城

38年振りの新見駅は豪雨の中 RICOH GRV GR18.3mm1:2.8

 2022年に入ってすぐ、オミクロン株と新型コロナウイルス第6波がやって来た。しかし、緊急事態宣言は2月一杯で解除された。
 新型コロナウイルスによる行動制限にいい加減嫌気が刺してはいるものの、行動制限解除となってすぐに色めき立つほど私も世の中の人々も無防備じゃない。でも3月を過ぎ4月になっても、どうも第7波の気配は無さそうかなという気にはなってきた。
 今年こそは3年振りに、GWのツーリングに行けるのかもしれない。というわけでコースをさらっと確認し今年の連休と照合し、以前60%ぐらい検討した5泊6日のコースを4/29〜5/4に狙いを定め、それぞれ宿を押さえたのが4月第2週。
 その後は(ひたすら)コースの詳細検討を進めた。詳細検討の実態は、登り標高差と距離の縮小である。RideWithGPSのルートプランナーは、距離は正確だが標高差が1.2〜2倍程度に多く出る場合が多い。紀伊半島Tour18の時など、毎日GPSの気圧高度計による獲得標高差は、計画値に比べ半分以下になっていたし、奥武蔵のグリーンラインでも登り標高差は現実の1.2〜1.5倍程度に算出される。これは何も高度データがインチキなのではなく、標高データが地形のポリゴンであることが原因と思われる。現状ではかなり精密である部類の5mピッチポリゴンを使ったとしても、山間の魅力的な細道の道幅はせいぜい6〜5mかそれ以下だからどうしても実際の道に存在しない高低差が発生することは想像に容易い。標高データの出所は天下の国土地理院だし、全道路の実高低差データを地形データに合わせてWeb地図に実装させるぐらいしか根本的な解決策は無いだろう。とにかくこの問題の解決には、まだ時を要すると思われる。というわけで今回の計画も、3年前に組んだコースの上り標高差は毎日2000〜3000m台ととんでもないことになっていても、どうせ多めだとわかっちゃあいるので、これまで2年間ずっと放置していた。
 また、コースも土地勘が全く無い場所でルート自動選択に任せていた面が多々あり、RideWithGPSと地形図を一緒に追いかけてみた。すると、楽しそうな旧道が並行するバイパスを無駄に経由していたり、逆に里山脇道を無駄に登って下っていたりしている区間が何カ所もあった。それに時には一つ隣の谷に移したり、また大回りを直行コースに直したりすると、一気に登り標高差が300mとか距離が20kmぐらい減ってゆくのであった。

 4月25日には旅程初日29日の天気予報が出始めた。中国地方はどこも雨後曇り。ワタクシ57歳のお誕生日4月27日火曜日には、29日の時間別予報が出た。出発地点の高梁は15時まで4mm〜時々10mmになっている。宿がある東城を含む庄原は高梁よりまだ少しましだが、それでも15時まで4mm。走りたいとか走りたくないとか、そういうレベルじゃない大雨だ。とにかく、これで早くも初日全行程の輪行が確定してしまった。八つ墓村撮影地訪問と山中でつぶやく「祟りじゃあ!」は、いきなりパーになってしまいそうだ。輪行で東城に着いて自転車を組み立てた頃、天気予報の前倒しで雨が上がるぐらいが関の山だろう。全輪行決定があまり悩ましい選択ではなく、輪行した到着先で有り難い展開になりそうなのが救いではある。

 4月29日は私にとっての新幹線のぞみ始発、のぞみ3号で品川6:22発。自由席が滅茶滅茶混んでいるのは、コロナ禍がやって来てから見た事が無かった光景だ。特大荷物スペース付指定席を取っておいて良かった。
 東京ではまだ明るかった空は静岡で一旦陽差しが現れるまでになったものの、その後名古屋から薄暗くなり、大阪辺りから雨が降り始め、新神戸を出るとかなり強まってきたのであった。これなら天気予報の4〜10mmが納得である。
 岡山9:25着。次は10:05発やくも7号で新見へ向かう。車両は381系、再来年2024年春にいよいよ新型273系が登場して置き換えられる。やくもが伯備線電化と共にキハ181系から381系に変わったのは1982年。この年、私が在籍していた鉄道研究部の、山陰合宿のメインのネタが出雲市の知井宮電車区での381系見学だった。しかし私はその時岡山機関区でくすぶっていた次世代幹線用ディーゼル機DE50 1の見学を主張する反主流派だったことを思い出す。2022年の今となっては、381系という大変優秀な国鉄型特急車両の、登場と引退(ちょっと)前の姿に接することができ、大変感慨深い。

写真は実は1984年撮影 Canon A-1 FD50mm1:1.4 S.S.C SL KR

 在来線のホームに降りると、屋根に雨音が響く大雨が降っていた。そんな天気ではあったものの、しかし岡山駅は大変に好ましい。何だか1980年代の幹線駅のような光景が繰り広げられている。島式ホームが今時4本も並び、各停はみんなフツーに113系か115系だし、105系まで登場して我が目を疑った。ステンレスカーがやって来たと思えば、ここだけの無印213系である。無印213系は2両編成で、片方のクハはJR西日本っぽい投げやりな造形の先頭車ユニットが着いていた。たしかこの車両、元々グリーン先頭車付の3両編成だったはず。グリーン先頭車を外して代わりにこうなったのだろう。極めつけは、並んじゃいないが一つおきで国内振り子車両最古参381系と最新型2700系が、顔を合わせているのであった。やるね山陽本線、JR西日本。
 列車待ちの30分間には、貨物列車が3本も通過した。機関車は桃太郎とEF510の何と北斗星色。これはいかにも現代の出来事だ。

 RICOH GRV GR18.3mm1:2.8

 やくも7号も指定席は満席だ。岡山を出発し山陽本線をてれっと流し、倉敷から伯備線に入ったやくも、いや381系は、自然振り子機構を効かせながら、それでも70〜80km/hぐらいの比較的おっとりした走りで高梁川の谷間を遡っていった。
 11:07、新見着。雨は相変わらず土砂降りに近い本降りだ。さすがは時間8mm予報。そして寒い。40年前の1982年8月、私は新見駅で駅寝して、翌朝岡山機関区で件のDE50 1をたっぷり見学し、同じく憧れのEF66 1の運転台に入らせていただき、足かけ2日掛けて各駅停車で帰京したのだった。

 RICOH GRV GR18.3mm1:2.8

 本降りの雨が続く駅前広場に、当時の記憶は全く蘇らない。おそらくロータリーそのものが無かったのかもしれない。どこで寝たかも全く憶えてない。消去法で考えると、駅前のベンチだったかとも思う。

 一度待合室に戻り、5分ぐらい経ってから駅前の食堂へ向かうことにした。店の前の看板と、岡山駅で目に付いた備中そばを注文すると、味噌汁のように野菜やらわかめが乗ったけんちん汁みたいなルックスの、やや太めの蕎麦がやってきた。お汁が甘めなのが特徴のようではある。甘めのお汁で具が入った麺類というところに、同じ芸備線の備後落合駅のかしわうどんを思い出した。同じく1982年の訪問時に印象的だったので、その後何回か味を再現するべく普通のうどんを自分で作って焼き鳥缶を入れ、気分を出したことがあった。

 11時45分頃駅に戻り、芸備線ホーム1番線の待合室で40分ぐらい居眠りした。土砂降りの中、新見駅ホームは屋根といい柱といい、全体的に線が少なく細く色は黒ずみ、1980年代の地方駅っぽいいい感じが漂っている。それはJRから消え失せたと思っていた、濃厚な旅のイメージであるように思えた。でもまあここ新見駅は芸備線始発駅。芸備線と言えば2021年度の営業係数2000台、つい最近JR西日本が廃止に向けて色を見せ始めたローカル線なのである。

 RICOH GRV GR18.3mm1:2.8
   RICOH GRV GR18.3mm1:2.8

 ホームには213系の各停、381系やくも、そして姫新線キハ120が去来した。381系は現行やくも色の他、引退直前キャンペーンでクリームと赤の国鉄色に戻した編成もやってきた。また40年前の訪問を思い出し、40年前に「この後こういう旅をすることはもう無いんだろうな」などと考えていたことを思い出した。しかし今、間違いなく私は旅に出ていて、過去の訪問を思い出している。そして40年掛かって、やくもには登場時の国鉄色、2008年頃の緑やくも、そして現在の赤やくもに乗ることができているのだった。こういう40年後の話を、新見駅前で寝ようとしている40年前の私に話してあげたくなった。

 RICOH GRV GR18.3mm1:2.8

 居眠りから覚めたら、2人だけだった待合室にお客さんが増えていた。誰もいなかったホームにも数名客がいる。地元じじいっぽい一人を除き、みんな一目でわかる鉄ちゃんである。
 新見到着時に駅員さんが教えてくれたとおり、12:45に芸備線のキハ120が入線してきた。ドアが開くとあっという間に鉄ちゃん達がなだれ込み、ダッシュでクロスシートを占拠した。まあ発車20分前から並んでいた皆さんなので文句は言えない。カップル鉄ちゃんなどという人もいて、女性鉄ちゃんがキハ120を見て「小さっ」などと言っている。

 13:02、新見発。芸備線が伯備線から分岐するのは、2つ先の布原である。でも伯備線は、確か新見から上り勾配が厳しくなった筈だということを、外の風景でやっと思い出した。キハ120はさすが現代の気動車、エンジン音も軽やかになかなか快調にぐんぐんと、小さくても実に頼もしい。そういえば大糸線のキハ52を置き換えたのもキハ120である。
 切り立った狭い谷底にある芸備線分岐駅の布原は、渓谷と田圃と民家とカーブした線形、小さな鉄橋の配置が模型の様に完璧で、SL時代D51三重連の名撮影地だった。そのため件の1982年、鉄道研究部合宿メニューとしてこの場所で半日ほど撮影している。14年前、下関での確定検査帰路にも自主的に布原を通過しているが、今回の方がじっくり眺めることができているのではないかと思う。
 伯備線が電化されて架線柱が線路脇に立ち並んですっきりした模型感覚が薄れたと言われていて、SL当時信号場だった布原はいつの間にか駅に昇格していたようではあるものの、現在の自転車ツーリスト目線としては全体的に何の問題も無い。民家など40年前、いやSL時代から何の変化も無いのだろうな。

 芸備線の風景のハイライトは東城から向こうであり、大雨の車窓風景は長閑で愛らしくも、目に停まるような突出も無い。その大雨は、東城直前で突如弱まり始めていた。目論見ばっちりすぎるが、天気予報の前倒しはこの季節ごく普通の出来事である。

記 2022/5/8

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Last Update 2022/8/29
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